第四回「TV放送吹替版」って、いったい何なの?
 

 「吹替」は、今まで一口に語られる場合が多かったように思います。それが意味するのは、TV吹替だったり、TV吹替とソフト用の吹替を一緒にしたものだったり、あるいはソフト用の吹替だったりしました。

 しかし、本サイト"007吹替.com"は、断言したいと思います。

「TV放送吹替」と「ソフト用吹替」は、区別して語られるべきである、と。

 これまで、「TV放送吹替」と「ソフト用吹替」はひとくくりにされがちだったのですが、今後は明確に分類しましょう、という主張です。両者は、そもそもの成り立ちが異なります。ざっくりとした制作の前提をみるだけで、違いは明確になります。

「TV放送吹替」
1.放送を前提としたもの
2.潤沢な予算
3.放送枠によるカットが前提
4.必要に応じて意訳

「ソフト用吹替」
1.VHSやDVD等に収録を前提としたもの
2.ソフトの収支見込に準じた予算
3.ノーカット
4.原語になるべく忠実な翻訳

 1の用途は大前提なので説明の必要はありませんね。

 2の予算は、仕上がりに関わってきます。「TV放送吹替」では、予算が十分にありますので、上手い声優さんやベテランの声優さんを起用することができ、キャスティングが豪華になります。(ぶっちゃけ、高いギャラを皆さんに支払えるということです)当然、演技やせりふのクオリティは高くなります。声優さんもバラエティに富み、脇役の隅々に至るまで、説得力のある演技を楽しむことができます。

 一方、「ソフト用吹替」の予算は、収支を前提に考えますので、上限が決まってきます。恐らく、洋画劇場の全盛期の吹替制作予算に比べて、1/4~1/2くらいの予算が限界でしょう。『ロシアより愛をこめて』のTV吹替版のように、若山弦蔵・内海賢二・鈴木弘子を一堂にキャスティング、なんてことは夢また夢。脇役にまで有名な声優さんを配するのは予算的に難しく、新人が起用されることも多いです(新人声優の登竜門的な役割を果たすので、そういった意味では非常に意義はあります)。ベテランと新人が混在することも多いので、演出家がうまく全体のバランスを取らないと、演技の差が気になることがあります。

 3と4は、密接に関わってきます。「TV放送吹替」は、放送枠に合わせたカットが前提です。カットによっては、見せ場が削られたりストーリーがつながらなくなったりする恐れがあり、その点が「TV放送吹替」の最大の弱点でしょう。
 従って、原語にないせりふを追加したり、意訳することによって、カットされた部分のストーリーを補完する場合が多くみられます。本シリーズの『007は二度死ぬ』のTV放送吹替でも、ボンドがヘルガに拷問されそうになるシーンがカットなので、その次の場面で、前のシーンの内容を若山ボンドがせりふで説明しています。
 さらに、TV放送は、流れてしまえば巻き戻しはできない"一回勝負"なので、視聴者に分かりやすく、聞き取りやすく、意味を凝縮したせりふを意図的に創りあげています。(このあたりの<神業>ともいえるTV吹替版の妙技については、次回取り上げます)

 

「ソフト用吹替」は、ノーカットなので、意訳やカット部分の説明のせりふは必要ありません。TV放送とは異なり、聞き取れなかったり、分からないところがあれば、巻き戻して再確認できます。もちろん、繰り返して観ることもできます。「ソフト用吹替」が、原語に忠実な翻訳になってゆくのは、ごく自然な流れでしょう。翻訳の面からいえば、ある意味正しい姿なのかもしれません。
 が、あまりに忠実になりすぎると、日本語として不自然な表現がどうしても出てきてしまいます。そのような場合は、観ていて違和感が生じることがありますので、日本語表現の工夫はやはり求められます。

 以上のことから、「TV放送吹替」=<限られた時間内で放送される作品を、視聴者に理解させ楽しんでもらうための吹替>であり、「ソフト用吹替」=<オリジナルにできるだけ近い翻訳をめざす吹替>であるといえるでしょう。つまり両者は、それぞれ異なる目的で制作され、異なる役割を担っているということです。同じ「吹替」でありながら、出来上がったものは<別物>であるという点を、まずはご理解いただけたかと思います。

 次回は、「なぜTV吹替版は、人々を魅了するのか?」
 さらにディープなところに切り込んでゆきますよ~

ページトップへ